デザインの師匠の話




 私がデザインを志したのは一枚の芝居のチラシからだった。
中学の頃から芝居にどっぷりとはまっていた私は、制服のまま芝居をよく見に行ったもので。

 当時から、芝居のチラシには興味を覚えていたのだが、寺山修司主宰・天井桟敷の劇団のチラシを見た事でデザイナーへの道を志す事は決定的となった。
 それは横尾忠則さんの額縁デザインで、当時あまりの衝撃に体が震えたのを覚えている。(右チラシ)

 芝居のチラシはデザイナーを志すキッカケになっただけに、ギャラ度外視でもやらせて頂く一番好きな仕事だ。


 さて、私のデザインの師匠の話だが、わたしの師匠と言えば、一見して日本人というよりは英国の音楽家のような感じで、ロマンスグレーのモダンなラインの髪型と、ベストがよくお似合いの方だった。

 父程に年齢が離れていたのに、いつも私達の方が驚かされるセンスの、Iさん。

 あまり軽快に喋る方ではなかったので、彼の一言一言を今でも覚えている。

 「遊ばない奴は、いいデザイナーじゃないんだ。良い酒と、いい時間を楽しめないと駄目なんだ」
 週に何度も、昼にはお茶の時間、晩にはジャズのライブと、いつも何処かへ連れて行かれた。

 夜のジャズライブでは軽快な音に合わせて、渋く「ヤァ!」と声を掛けていた粋な師匠。
 本当にジャズを愛し、ミュージシャンの知り合いも多く実際何枚かのアルバムデザインも手がけていた。
 ジャズを聞きながらニヤッと笑って、ヒゲを酒に濡らしていらっしゃった姿が今でも目に浮かび懐かしい。
 

 「デッサンが出来ないならデザイナーはやめた方がいい」
 「グレーを使いこなせて一人前だよ」

 Iさんのサムネール(鉛筆書きのアイデアスケッチ)は、ダビンチのように繊細でするどく的確で、彼はグラフィックデザイナーというよりは、芸術家という方が正しいような方だった。

 私が初めて就職したデザイン部は、「量でデザインを覚えろ」という感じで終わらないと帰れない過酷な日々。
 デザイナーという職は今と違い、指定原稿を作り版下部署に制作をしてもらわねばならない立場で、当時私達ぺーぺーデザイナーは、版下や写植などの、どこの部署の管理職にもマトモに話も聞いて貰えなかった。

 そんな中、新人デザイナーは徹夜も余儀なく、私も例外無く、会社の会議室の床で人知れず倒れていた事もあった。
 この頃にヘッドハンティングでデザイン部に招聘されたのが師匠だった。

 師匠は私達のそんな姿を見て、
「何故そこまでやらせるんだ、あの子達が何をしたって言うんだ!環境は与えてやるものだ、ワシはこの環境を変えられないなら、ここに来る意味なんてない!」
と、営業部長に声を潜めて、壁に押し付けて詰め寄られた姿が忘れられない。

 師匠が、デザイン部部長に就任された途端に、デザイン部の環境は一転した。

 「じっくりやりなさい、アイデアが出るまで会社に戻らなくていいから。遊んでいればいいんだ」
とIさんは言った。
 部屋も一人一人が集中出来るように、それまでの職員室型の机の配置から、アイデアメモが貼付けられるように、一人一壁のあるテーブルに変わった。

 私はその後、雑誌のデザインの業界に進みこの会社を辞めた訳だが、当時人も足りなかった現場だったので、こんな時に「辞める」とIさんに言わなければならなかった事は一番辛い思い出だった。

「小森が幸せだったらいいんだ、頑張りなさい」。
 チャップリンという喫茶店で、二人でボロボロと涙をこぼしながら、苦いコーヒーを飲んだ事は今でも忘れない。


 当時の師匠の年代のデザイナーさん達は、今非常につらい思いをされている。

 コンピューターの波に押しつぶされて、コンピューターを使える者が「デザイナー」と呼ばれ出し、何人もの本物のデザイナーの先輩諸氏が職を失い、仕事を辞めた。
 私達は真近で過渡期のその現状を見てきた。

 「仕方ないからコンピューターも覚えるよ」と笑ってらっしゃったIさん。
 実はその後Iさんは、会社を辞められて、我が旦那さんの前の事務所に間借りして、仕事されていた時期があった。

 次の職場が決まって、旦那さんの事務所を出て行かれる時に、ある「大きなカバン」を置いていかれた。
 その事をIさんに連絡すると、

「それはワシの歴史だ、他には何も無い。そのカバンを開ける事がこの先有るかどうかもわからないから君らが持っていてくれ」

 古びた革製のズッシリと重いカバン。その中身を見て私は胸が詰まった。
 それが上の写真のカンプ用のマーカー。

 Iさんが個人事務所時代から長年使い続けていた、数々の素晴らしいデザインを産みだしたマーカー。
 一見して分らないが、一色無くなると一色足して、ずっと使い続けてらっしゃったので、新しいマーカーや、手垢にまみれた古びた物が混在している。

 カバンを置いていかれたのは、彼なりのコンピューターへの恨み節だったのかも知れないし、時代を置いて新しい世界に踏み出したかったのかも知れない。
 なによりも私達へのメッセージでもあったと思う。

 このマーカーは私達の一番の宝物である。

 「デザインは手でやるもの」
 これは私が後輩達に、嫌と言うほど言ったかもしれない言葉。

 全ては師匠の受けおりである。
 わたしは、Iさんのようなデザイナーになりたいと思って今日までやってきた。

 Iさんはその後入院されたりしたが、若い人がたくさんいる現場で、今もお元気でデザインされている。

 余談だが、旦那さんと私が結婚した際に、誰もが「マジで!」と驚く程に社内で仲が悪かった私達。

 報告すると、Iさんだけは「わかっておったよ」とニッコリと笑われた。

sasquatch top

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