デザインとは新しいものを作り出す事だけではないと私は思っている。
そこには前例を見つめ直す修復に近い感覚も常に纏うことで、そのデザインは古い新しいと話す事さえも愚問だとも思う。
形ないものの難しさ。有形でないものを追う仕事は難しい。自分でやっていても正解が全くない。
デザイナーの思考には「ここでやめておこうか」という、個人の意思決定があるだけなのだ。
同じ仕事を長年やっていると「ピンと来る」というコトがあって、片鱗を聞けば全貌が見通せるということがある。「ああ、それは面白くないな」とか「ああ、いけるかもだな」とか。
そこがデザインという仕事の駆け引きという部分。未だにこの事が長年の私の悩みどころかもしれない。
つまりは逆説的な事でしか納得できない事項も人間にはいくつもあって、その方が仕事として上手くいくこともある。
例えば、望まれる面では完璧であると思われるデザインを出したとして、判断する立場の人間がすんなりと受け入れられるかというとそういう場合ばかりではない。
デザイナーがプレゼンの時に敢えて「捨て案」というものを出していくのも、この作用の効用が一番説得しやすいなどもあって、人間とは目に映る物をまずは否定から入る要素がどんな人にもあるという事である。
人それぞれデザインに対する解釈は違う。
「格好がいい」「安定している」「邪魔にならない」「引き立っている」など、デザインに対する解釈は実は様々であって、安易に「格好がいい」がイコール「愛されるデザイン」にはならない。
日本では統計的に「うけるか、うけないか」で派生するデザインが多いが、愛されるデザインは本来繰り返す。
これには深い歴史があって長年の全世代の人間の目を信用するという確かな下敷きがある。
「愛される」とはこういうことなんだと、最近になって本当に実感できるようになってきた。
モダニズムしかりサイケデリックしかり、いつまでたっても同じところに落ち着く。
こういうものにシンパシーを感じながら、作り上げる作業も大いに必要かと思う。
関係のない話だが、私が小学校の頃「ちびまるこ」ちゃんと同じ時期に同じ場所で暮らしていたコトがあり、あの漫画とは「大洪水」や「 ローラースルーゴーゴー」「小学校の仲良し学年ペア」など、シンクロする思い出があまりに多い。
「ちびまるこ」ちゃんの舞台、静岡県清水市はデザインを非常に気にするところであった。
公園には必ず美術品のオブジェが建ち、デッサンスクールに行く子たちは普通の光景であった。
かくいう私もその一人だった訳だが、関西にはそのような場所がまだまだ少ない。
世界から見た日本をモチーフにしたデザインと、国内デザインにはとても高い隔たりがある。
本来はその土地に根ざして脈々と伝わっていくデザインがあってしかりなのだが、日本には一度焼け野原になった経験があって、古き良い芸術があらゆる面で養われない土壌なのか。
小さい頃から、モノを見る目を養う事も日本では急務かもしれない。
2006.12.26