前々から、お問い合わせで「ホームページ」の仕事の話を頂く。
デジタルソリューション系のデザインだけの発注や、画像ディテールやFlashのswfの納品まででしたらお受けするのですが、コーディングが発生する仕事は受けておらず、実はよっぽどの事が無い限りホームページのコーディングが付随する仕事はしていないのが現状なんですよね。
こういう発注があるというのは、最近のデザイン業界の習わしとしてDTPとWebは一緒に習うべしという学校姿勢が一般的になってきたという事なんでしょうね。
ホームページを作成しているのは私にとっては名刺的な行動で、お問い合わせくださったお客様には期待に添えず、すみませんでした。
とかくデザイン業界は線引きが無くなっているのだから、デザイナーと聞いても一体なんのデザインなのかと、お客様がわからないのは当然である。
グラフィックというものは、そもそも商業デザインの広告発想から始まっている。
二次元的な考えを保ちながらアートとして現在も成り立っているので、その根本はアートである事が基本。
「配置する」という意味のレイアウトとは基本の成り立ちが違う。
フローチャートを総合的に統括するインタラクティブな構造主義が、そもそものWebの考え。
グラフィックを語るのに考え方に不可欠なSP観念(促進販売)を取っても、仕事の観点からしても違う事があり、グラフィックと分けて考えられない現状には問題があるように感じる。
私がWebを成業にしないのは、コーディングはデザイナーの範疇ではないという思いがある事もあるが、中途半端に違う商売を併用したくない考えも強い。
例えば、名刺に「カメラマン・グラフィックデザイナー・ライター」と書かれている人と「ライター」とだけ書かれている人がいたとして、どちらが貴方の胸に訴えてくるものだろうか。
私は後者である。一つの事にこだわりを持つ部分に私は惹かれる。
昔の事だが、私は「デザイナー」と呼ばれる事にずっと恥ずかしさを覚えたものだった。
これは至って簡単な事で「そんな実力が、まだまだ無いのに」と思っていたからで、昨今は会社からデザイナーと呼称され自ら「デザインが出来る」と思っている方が多いのには、ため息。
自分の職業は自分で決めるべき。そこには下敷きとなる自分の修行への自負や自信があればいい事なのだが、日本人の恥無い為の努力の文化は一体何処にいったのか。
デザインは勉強しすぎてしすぎる事は無い。毎日デッサンをする、仕事を数々こなす。これも勉強である。
だが見る目を養う術を知らないといつまでたってもデザインなどは出来ない。「デザイナーもどき」と「デザイナー」との差は、「見る目」というところに大きな溝がある。
天才的な閃きはそもそもの才能だと思い込んでいる人も多いが、何もしなくても出来る人は殆どいない。そんな人は万人に一人で、作品を見れば凡人か天才かはすぐにわかる程のオーラを放っている。
私はデザイナーになってこれまで、先輩も含めそのような人に私が出会った経験は、たった一度。素晴らしい作品を残す人は、それ相応の勉強と思考を続けているという事実があるだけだ。
ドイツで「マイスター」の称号を政府が管轄したのにも、二、三年やっただけの職人たちが大仰な看板を乱立させ消費者に混乱を招いたという、似たようなそれなりの経緯がある。
だからといって、「色彩一級」だの「DTP検定」だのと、そんなマドロッコしいものが必要なのか?
その人の仕事を見れば果たして本物か偽物かすぐにわかるではないか。
似たような事で、見る目も無いのに「偽物だ、本物だと」と騒ぎ立てるブランド騒動には辟易とするし意味も無い。見る側も見る目を養う必要が急務であって、今の日本人には「マイスター商標」など全く意味が無いという事だ。